今を生きる意味・・・。70年代の初めのころ、私の家族は関西のとある新興住宅地に引っ越してきた...
山を切り開いて造られた町は自然に溢れ太陽の光がさんさんと降り注ぎ経済成長期の中これほど幸せな環境はなかった...
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私はその町の新しい中学校に入学し新しい友達が毎日増えていく楽しい日々を過ごしていた...。
2年生の1学期のこと...お昼休みに私は女の子に呼び出された...。
かのじょはノートを差し出してこれに日記を書けと言う...
私はこれが何を意味するのかがよく分からなかった...
家に帰ってからノートを開けてみるとかのじょからのメッセージと前日の日記が書かれていた...
それまで日記は正月三箇日しか続かず昼食と夕食のメニューしか書いていなかった私は困り果てながらもその日のページを埋めて翌日かのじょに渡した...
70年代このような交換日記が流行っていたんです...
今となっては自分が何を書いていたのか全く覚えていない...テレビとか友達のこととか他愛も無い事を書きつづけていたのだと思う...
オバQがムーミンに「変身」する漫画とか駄洒落とかさ...それぐらいしか書けなかったと思うんだ...
それでも1日置きに日記を書いてはかのじょに渡していた...かのじょが何を書いていたのかも覚えていない...
そしてそんな日々が1ヶ月ほど続いた...
あれは夏休みの1週間前の土曜日だったと思う...学校が終って友達たちと近くの小川で遊んでいた...
友達と別れた帰り道「石田君」と呼ぶ声がする...
振り向くと交換日記のかのじょが家の前でホースで水をまいていた...かのじょはいたって機嫌が良かった...チョコレートの懸賞でコダックのカメラが当たったというのだ...
1時間ぐらい話したと思う...帰る前かのじょがそのカメラで「写して」と言うので写真を1枚撮った...
そして次ぎの日の日曜日に会うことにしたのである...「約束よ」とかのじょは言った...
次ぎの日も暑かった...大汗をかいて公園に自転車で行った...そしてかのじょが現れるのを待った...
しかし待てどもかのじょは来なかった...約束したのにと呟きながら私はひどくがっかりして夕方家路についた...
月曜日かのじょは学校を休んだ...組の友達に話すと「デートでふられたんか」と笑われた...
デートのつもりは無かった...いけないことをしてしまったのだろうか?裏切られたのだろうか?私は良く分からないまま腹を立てた...かのじょは期末までとうとう学校を休んだままだった...
夏休みに入ると私は田舎の親戚の家に預けられることになった...父が急に転勤することになり準備のために家はどたばたしていた...
関西に戻って来たのは2学期が始まる約1週間前だった...
帰ると母が「かのじょ」が大変な病気で入院していてると言う...私は驚いた...
そして日曜日に市民病院にお見舞いに行くことになった...私は事の重大さを全く理解していなかった...母と病院に行くとかのじょのお母さんが待っていた...そして私に「来てくれてありがとう」と何度も頭を下げるのだ...
かのじょは個室にいた...部屋に入るとベットに横たわるかのじょがいた...かのじょは病の為に疲れ果てもうぼろぼろだった...まだ子供だった私は驚き恐怖のあまり走って逃げたのである...大きな病院の中を走り抜け玄関の外で震えていた...
するとかのじょのお母さんがやってきて私の手を取り「待ってお願いだから...ちょっとでいいからそばにいてやって」と言う...そこへ私の母が来ていやがる私を無理矢理かのじょの病室まで引っ張って行ったのある...「ちゃんと優しい言葉をかけてあげるのよ」と言われ私はかのじょのベットの横の椅子に座らされた...
一体どのぐらい病室にいたのかは覚えていない...
それから数週間後私の家族はイギリスに引っ越すことになってしまった...イギリスでは現地の中学高校に通い大学を卒業した...日本を忘れ日本語も忘れロンドンでイギリス人と共に働いていた...イギリスでの生活は12年の月日を数えた...
イギリスに行ったのは父の都合だったが今度は私が日本に転勤することになった...そしてまた関西に戻って来たのである...帰国して1年ぐらいして2年2組の友達と再会することになった...
しかし12年もイギリスで過ごした為か昔の友達と会うともう話題が全く合わなかった...でもかのじょのことを聞くのは忘れなかった...
「なんや石田君知らなかったんや...」
その時かのじょが私が転校した約1ヶ月後に亡くなったことを始めて知ったのである...2年2組は私が引っ越した直後にかのじょが死にその後はクラスから笑顔がぱったりと見られなくなってしまったそうだ...
友達たちと会って数ヶ月後私は私がかつて住んでいた町に戻っていた...そしてかのじょの家の前で立ち止まっていた...ベルを押すと「はーい」という声が聞こえまもなくかのじょのお母さんが出てきた...
私は何かを言おうとした...でも何を言っていいのか分からなかった...そして「すいませんでした」と一言だけ言うと逃げ出してしまったのである...
「石田君でしょ...待ってお願いだから...」
13年も過ぎているのにかのじょの家に始めて入ると70年代当時の面影があった...かのじょのお母さんは冷たいジュースを勧め本棚にあった10冊のアルバムを出してきた...
そしてかのじょが亡くなるまでのことの経緯を話しくれた...
あの日曜日の約束の日かのじょは朝から微熱があり気分が優れなかったのにこれから出かけると言い出した...寝てなさいと言うお母さんと娘は大喧嘩となりかのじょは飛び出していった...
ところが10分もしない内に近所の人が駆けつけてきてかのじょが路上で倒れていると伝えた...暑さの中失神しているかのじょを背負って家に連れ帰り救急車を呼んだ...
最初は原因がわからず病状はどんどん悪くなっていった...
入院中かのじょはひどくふさぎこんでいたのだが時々「勉強用に」と持ってきたノートを見ながらくすくすと笑うかのじょにお母さんも最初はそれが何か気がつかなかったらしい...
病状が悪化して始終眠るかのじょの枕もとのノートを手にとって始めてそれがかのじょと私が書き綴った交換日記だったことを発見したのだ...
かのじょのお母さんは私のお母さんに会いに行き娘の病状を説明した...それが私が田舎から戻ってくる数日前だったのである...
「あの時石田君が『がんばってね』と言ってくれたのでその後ちょっとは回復して後数日しかないと言われていたのに1ヶ月半も持ったのよ...」
アルバムを開けるとみんなから愛され大切にされて育ったかのじょの写真がページを捲るごとに見られた...
そして最後のページにはあの土曜日に私が写したかのじょの笑顔が飾られていた...
「あの交換日記はね娘が天国に持って行ったわ...」
大粒の涙が止まらなかった...
あれからさらに13年...私は骨髄バンクへのドナー登録のために秋葉原の献血センターに行った...ひどく寒い日だった...
採血を済まし10ccの私の血がトレイに置かれているのをじっと見つめながらようやく生きている意味が分かったような気がした...
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